淨光寺について

 当山は真言宗の単立寺院であり、山号は補陀洛山、院号は慈眼院、寺号は淨光寺です。開基は弘法大師と伝えられており、ご本尊は聖観世音菩薩(聖観音)を祀っています。

 近年では新漢字の「浄」を使用されていることが多かったのですが、寺伝の資料によると旧漢字の「淨」が正式になっております。

 現在は摂津国八十八所霊場の第六十四番札所となっています。

淨光寺略縁起

 その昔、昆陽寺の恵満和尚が、観音の功徳により海中から光を放つ金像を感得し、持ち帰って小さなお社を作りお祀りしていました。しかし、恵満和尚の死後はお祀りする者がいないまま数十年間放置されていました。そののち天長6年(829年)の秋、諸国巡錫の折にこの地に立ち寄られた弘法大師が寺を建立し、恵満和尚が感得した金像をご本尊にお祀りして補陀洛山淨光寺と名付けました。これが当山の草創と伝わっています。往時は七堂伽藍を備えた大きな寺で、その名は広く知れ渡り、人々の精神修養の場となっていたようです。
 ところが天正7年(1579年)、摂津国伊丹の城主・荒木村重の乱の折、伊丹城の落城の戦火で堂塔すべて焼失してしまいました。また、のちの豊臣秀吉の太閤検地によって寺領を没収されましたが、寺名はそのまま地名として残りました。再び小さなお社を建ててご本尊をお祀りしていましたが、その際に寺名を慈眼院と改めることとなりました。慶海和尚が住持であった慶長年間(1596年~1615年)には三度もの不運が続き、ご本尊を伝法の浦に移しましたが、その後行方知れずとなってしまったようです。
 貞享3年閏3月3日(1686年4月25日)、淨光寺の衰退を嘆いた中興の性海(宥宝)和尚がご本尊を探し出し、善男善女により寄進建立された本堂に安置しました。
 昭和に入り、当時所属していた真言宗善通寺派総本山善通寺より別格本山の寺格を賜わりました。昭和48年(1973年)、弘法大師御誕生1200年にあたり老朽化していた本堂を再建しました。令和3年(2021年)、弘法大師御誕生1250年を迎えるにあたり老朽化していた山門と庫裏を再建し、現在に至ります。


紙本着色淨光寺縁起図

 この絵は、天長年中(824〜834年)に空海が淨光寺に堂舎を建てる以前、恵満和尚が、海中より放光する金像を得て歓喜するところから始まります。南北朝の内乱の時には南朝方の楠木・和田勢と淨光寺の地に城を構えた箕浦次郎左衛門俊定との合戦、寺の焼亡の部分、寺の再建と本尊の安置供養までを絵巻風に二幅に描きわけています。

 濃彩による作風は、桃山時代に盛行した風俗画の作風に共通するものをもつことから、町絵師が出現し始めたと考えられる慶長・元和(1596〜1623年)頃にその作画期が考えられています。昭和61年(1986年)に尼崎市指定文化財となりました。